今日の六鬼妄想 燎・目黒・たんぽぽ編

六鬼三人娘(今考えた)である燎・目黒・たんぽぽのキャラクター性は、そのまま「女の人生における三つの時期」に置き換えられるのではないか?と思いついたのでつらつらと妄想してみます。
まず燎。燎というキャラクターは女の人生のうちの「少女(子供)の時期」を担っているのではと思います。燎はすごくしっかりしているし生活力もあるけど、精神的には未だに親(吐)の支配下から抜け出せず、親が世界の頂点である事に対して疑問すら感じない「お父さん大好きな子供」。3人の中では一番精神的に未熟ではあるけど、だからこそやる気パワー(何)は一番強いのだと思います。例えそのパワーの原動力が自分勝手な視野の狭さと思い込みから来る物であっても。
目黒が担うのは「娘の時期」。目黒の家族構成は不明ですが、興味の対象が親や肉親から脱し、家族の外側にいる異性(宗理)に移っています。つまり恋を知った乙女です。原作での立ち位置そのままなんですが。恋に浮かれて自分の気持ちのままに全力で相手にぶつかっていくけど、「恋は盲目」と言うように相手がどんな気持ちでいるかまでは考える余裕が無い。自分の事を妻と言って新婚家庭を夢見てはいるけど、自分が母親になるイメージまではまだ出来ていない「娘」。子供の時期は過ぎたけど十分な母性はまだ育っていない女性、という立ち位置ではと思います。(もしかしたら目黒の宗理に対する感情は異性に対する恋ではなく父性に対する憧れがこじれた物でしかないのかも知れませんが。)
たんぽぽが担うのは「母の時期」。現時点でこの三人の中で一番精神的に成熟しているのはたんぽぽなのだと思います。目黒の暴力を許容し、練造を諭し、卍に抵抗無く肉布団する。ここらへんの行動にたんぽぽの強い母性を感じるのですよ。卍に添い寝したり肉布団したりのシーンは決してたんぽぽが男慣れしていた訳ではなく、母の目線で卍を看病していた、卍を男としてではなく被保護者(母性を注ぐ対象)としてしか見ていなかったからこそ出来た行動だったのではと思います。これは卍を一人の男として見てしまう「娘」の目黒では出来ない。だから卍にたんぽぽ、凛に目黒という組み合わせだったのでしょう。目黒は卍に対して異性であることを過剰に意識してしまい、そして宗理に操を立てる為に卍をたんぽぽに任せたのだと思うのですよ。「アタシは凜を暖めるからブタは卍さん担当な!アタシの操は先生のモンだ!他の男と添い寝なんか出来るか!」といったやりとりが有ったのではと思ってます。
たんぽぽの持つ母性は「少女」「娘」の時期を経て育っていった物ではなく素の性質そのまま、つまり「生まれついての母性の塊」といった物ではないかと思うのですよ。逆に言えばたんぽぽには少女燎のようなパワー溢れる時期や、娘目黒のように恋に溺れる時期をほとんど経験する事無く、最初から母の状態で20年過ごしてきているのかも。「旦那さんと5人の子供に囲まれてニコニコしながら赤ん坊のおしめを取り替えるたんぽぽ」は簡単に想像出来るけど「恋に身を焦がして頬を染め、やきもちを焼いたりするたんぽぽ」はちょっと想像出来ない・・・。でもそういうたんぽぽも見てみたいですよね。たんぽぽに頬を染められたりしたら男なら誰だって惚れてまうやろー!私だって惚れてまうわー!
燎が親離れをして目黒になり、目黒が成熟してたんぽぽになる。3人揃う事で女という生き物が完成する、といった感じでしょうか。いや、全く個人的な妄想なんですけどね(汗)